天狗党の足跡(越前編2)



3 蝿帽子峠を越えて越前大野藩領へ進入

 天狗党勢が越美国境の蝿帽子峠を越えて、越前大野藩領であった西谷郷へ進入してきたのは、

 厳寒の12月4日
(陽暦1月1日)のことでした。なぜこんな難所を選んだのでしょうか?

 天狗党は、尊王攘夷の志を天朝に訴えんと、京を目指して幹線道路の中山道などを通ってきました。

 しかし、美濃鵜沼宿
(岐阜県各務原市)辺りまできたとき、進路上の長良川対岸一帯に、幕府から追討命令を受けた彦根藩(滋賀県)

 大垣藩
(岐阜県)、桑名藩(三重県)などの諸藩が軍勢を繰り出し、待ち受けていることを知りました。

 このため諸藩との戦を避けて、急遽、越前方面へと進路を変えたのです。



下秋生から蝿帽子峠方面を望む(大野市)
下秋生から本戸方面を望む(大野市)


(1) 越前大野藩の動向


 天狗党が越前へ転進すると読んだ幕府側は、11月30日伝令を出して越美国境の諸峠をもつ関係藩へ出動を命じました。

 その第1報は、12月1日越前福井藩から大野藩へ届きました。「天狗党が美濃から越前へ向かうらしいとの風聞があるので、その方面の警備をせよ。」というものでした。

 越前大野藩では、直ちに蝿帽子峠と九頭竜川上流に探索方を派遣しました。

 次いで12月2日には幕府追討軍目付の江原桂介名の書状が福井藩から回されてきました。

 その要旨は 「天狗党がそちらに向かったから難所難所を断ち切り、すぐ討ち取るように」とする下知でした。

 続いて12月2日夜には、福井藩の急使がきて、200人の援兵を送る旨の申し入れがありました。

 このようにして越美国境の諸峠のうち、油坂峠には美濃郡上藩、温見峠、蝿帽子峠には越前大野藩 、冠峠には越前鯖江藩が急遽、防備陣を構築することになりました。




(2) 天狗党の蝿帽子峠越え

 蝿帽子峠は越前の南東方、越美国境にあった峠で、現在の地図に峠名は見当たりません。

 国道157号線上にある温見峠の東方約6キロ付近に位置し、越山
(標高1,129m)と屏風山(標高1,354m)の稜線鞍部にある標高978mの峠です。

 越前側の峠下を源流とする蝿帽子川が北方へと流れていますので、その位置が推測できます。
 
 その頃、天狗党は美濃谷汲村
(岐阜県揖斐郡谷汲)辺りから北進して、根尾川沿いの各村を進み、

 大河原村で小休止した後、旧暦12月4日夕方から蝿帽子峠に挑みました。

 このときの事情について武生市図書館蔵「傾城唐繰人形」には次のように記されています。

 「美濃国谷汲より西谷越えにさしかかり、蝿帽子、笹又峠など、とても人馬の通るべき道にはあらず。 

 大難所二十里の間、駅村もなく千尋の谷川あり、剣の如き岩石相続き、道は一尺足らずの細道、

 殊に、この節は師走の初め、厳寒のときなれば雪は七、八尺も積もりて、万山銀世界とはこの時なり。

 なかなか打越えのこと、思いもよらずなれど、さりとて後ろへも帰れず、

 窮余の策として新雪の道に布団を敷いて歩かせ、大小の樹木を切っては橋となし、谷川を渡る。

 無情にも雪はしきりと降り、諸浪士、頭より氷付けば、さながら銀の針を植えたるが如し。 

 踏み外した馬は、哀鳴を挙げて千尋の谷に墜つ。救う策とてあらず」云々。

 山に慣れた猟師も避ける厳寒、深雪の中、雪道に慣れない天狗党勢が武器を背負い、さぞ難行苦行の連続であったことでしょう。

 一浪士の記録によれば、この時の夜間峠越えで5人の犠牲者と馬1頭が谷底へ転落したとあります。


水戸天狗党の越前国内行程図

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