天狗党の足跡(越前編1)



はじめに


 毎年10月10日、敦賀市松原神社において、志半ばで倒れた水戸烈士の遺徳を偲ぶ顕彰祭が、遺族ら関係者多数を集めて厳かに営まれています。

 神社の向かい側には、武田耕雲斎の銅像や水戸烈士の墓が建ち並び、今も観光客などが立寄り、参拝している姿が絶えません。

 事件から約140年、人々の心を惹きつける天狗党とは、どんな人達だったのでしょうか。

 越前における天狗党の進んだ道筋や風景を辿りながら、当時の越前諸藩や沿線住民などの動静に触れつつ、その足跡を追ってみました。



武田耕雲斎の銅像
水戸烈士の墓


1 元治元年(1864)の主な出来事

 この年は、内乱の年であったといわれます。関東地方でも京都近辺でも戦乱が起こり、年末には長州藩(山口県)で藩内の動向を決定した内戦も起きました。

 戦乱は武士階級だけでなく、一般農民、商人等もこれに加わりました。越前国の出来事も含めて、この年の主な出来事を箇条書きにしてみました。

  2月 福井藩主 松平慶永京都守護職に任ぜられる
(4月解任される)
  3月 常陸国筑波山で水戸藩天狗党が挙兵する。
  6月 京都で池田屋事件起こる。
  7月 京都で禁門の変起こる。禁門の変に際し、福井藩堺町御門を
     守備し、長州藩と戦う。
  8月 四カ国連合艦隊、下関を砲撃
(下関戦争)幕府第一陣長州征伐
     出陣命令を出す。
  8月 福井藩主松平茂昭、征長軍副総督に任ぜられ出兵する。
  11月 長州藩、幕府に屈服する。
  12月 高杉晋作挙兵する。
  12月 水戸天狗党、雪の越前へ進入、幕府軍に降伏する。

 ざっと、これだけでも幕末の政情不安と風雲急を告げていたことが理解できます。




2 天狗党争乱のあらまし

 明治維新
(1868)まで、あと4年の歳月という幕末、元治元年(1864)3月27日(旧暦)、常陸国(茨城県)水戸藩において、

 尊皇攘夷を旗印とした天狗党
(急進派)を中心に約3,000人の同志が筑波山に挙兵し、幕府軍など追討軍と戦い、対峙しました。

 戦況不利の中、田丸稲之衛門を首領とする800余名が追討軍の一角を突破して脱出しました。

 同年10月25日、彼らは常陸国大子村に集結して陣容を立て直し、当時、藩内の諸生党
(門閥派)のために家老職を追われた

 武田耕雲斎を総大将に約1,000人の軍勢が、尊王攘夷の志を天朝に訴えんと京都を目指すことになりました。

 彼らは11月1日常陸国大子村を出立し、野州
(栃木県)、上州(群馬県)、信州(長野県)、美濃(岐阜県)を通り、雪の越前へ入ってきました。

 越前内では、西谷
(大野市西谷地区)、池田(今立郡池田町)、宅良(南条郡今庄町)の間道を進み、今庄宿から木の芽峠を越えて

 新保
(敦賀市新保)に至りましたが、加賀藩はじめ各藩に進路を阻まれ、やむなく京への志を断念し、降伏しました。

 元治2年
(1865)2月、幕府若年寄 田沼意尊の命により捕縛されていた武田耕雲斎ら天狗党勢は、

 斬首刑353人、遠島刑136人、追放180人、水戸藩引渡し125人など過酷な処刑を受けました。



水戸天狗党の西上道順図


天狗党の足跡(越前編2)