街道の風景



その他諸街道




1古代の北陸道

 律令制国家が成立し、日本で最初に目的をもって建設されたのが、五畿七道を結ぶ官道で、

 都から諸国に通じる幹線として、中央政権による国家体制を進めるうえで重要な役割を担いました。

 五畿とは、山城、大和、河内、和泉、摂津であり、七道とは、東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道のことです。

 この官道の総延長距離は、約6,000キロメートルあり、平安時代末期までは山陽道が京都と大宰府を結ぶ

 主要な道であったことから大路、東海道、東山道が中路、他の四道は小路とされました。

 この頃の北陸道は、近江国(滋賀県)の琵琶湖北岸にある海津(高島郡マキノ町)から国境の山中峠を越え、

 山中、道ノ口(ともに敦賀市)に至り、さらに新保(敦賀市)から木の芽峠を越えて、

 二ツ屋(南条郡今庄町)を経由で今庄(南条郡今庄町)へ出て、府中(武生市)へと向かいました。

 更に時代を遡った古代の北陸道は、近江から江若国境の粟柄峠を越えて耳川に沿って下り、

 「弥美駅」(三方郡美浜町)の郷市、河原市に着くと、ここを右折して椿峠、佐田、関峠を越え、沓見、馬坂を通って「松原駅」(敦賀市)に至りました。

 


2 関峠(敦賀市・美浜町)・越前国と若狭国の境界

 古代から越前国と若狭国を分けた標高100メートルの国境の峠で、峠名は、現在の敦賀市関付近に古代の関が置かれたことによります。

 野坂山地と敦賀半島の鞍部にあり、峠の西の佐田村(美浜町佐田)と東の関村(敦賀市関)との間に、屹立した四角の石(国境石)があったといいます。

 この国境石から丹後の吉坂まで17里31町(約71q)、敦賀まで2里34町(約12q)、小浜まで9里(約36q)あったといわれます。

 関峠は小さな峠でしたが、どうしても通らなければならない所で、ここを押さえられると越前、若狭のどちらへも入れない軍事的に重要な要所でした。


 

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