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10 千束一里塚(坂井郡金津町千束) 金津宿の坂下から丘陵地を上り、北陸道を北へと進みますと千束一里塚が左前方に見えてきます。 直径10mばかりの塚の上に榎の大木が高く聳えており、標識的な塚の形態が現在も残っております。 北陸道は丘陵地を上り、千束、山十楽、坂口、蓮ヶ浦と北上を続けて細呂木宿に至ります。 現在の県道(吉崎・金津線)がこれにあたりますが、昔の北陸道は痕跡不明なところが多く、切れ切れながら残存しているところがあるというのが現状です。 徳川家康は、慶長9年(1604)将軍秀忠に命じ、東海、東山、北陸の諸街道を整備し、江戸日本橋を起点に一里塚を造らせ、諸藩を通じてその普及を図った。 一里塚の目的は、各地への里程と人馬賃の目安とし、旅人の便宜を図ったのである。北陸道の道幅は3間(約5.5m)で道の両側に5間(約9.1m)四方の塚を造り、塚が崩れないように榎などを植えた。 当時、この塚は東側に2本、西側に1本の榎があり、木陰で休息し、甘い果実を食べ、旅の疲れを癒したものである。 明治以降、道路を拡張した際、東側の一里塚が取り壊されたので、現在のものは西側の一里塚だけである。 これより北に細呂木の一里塚と宿場があり、南に下関の一里塚があった。なお、一里を36町(約3.9km)と定めたのは織田信長で天正年間のことである。
11 嫁おどし谷(坂井郡金津町嫁威) この辺り、現在は車の交通がかなりありますが、昔は雑木林が続き、野犬を恐れて駅馬を利用する旅人が多かったいわれます。 また、吉崎御坊の蓮如忌が始まると善男善女の列が続いたといわれます。 昔、蓮如聖人が吉崎のお山におられた時のことである。山十楽の百姓与三次の妻きよは夫と二人の子供に先立たれて世の無常を感じ、深く仏法に帰依した。 そして毎晩のようにここを通って吉崎へお参りした。姑の婆さんは邪険な人で、 これをやめさせようとしてある闇の夜ひそかに鬼の面をかぶって、この谷から躍り出て嫁をおどした。 しかし、信心深いきよは、少しも恐れず「食まば食め、喰わば喰え、金剛の他力の信は、よもや食むまじ」と口ずさみ、念仏を唱えながら吉崎へ向かった。 あとで、姑の婆さんもおのれの所業を恥じ、蓮如上人の御化導をいただいて懺悔し、無二の信者になったという。 この北陸道は、今は全く昔日の面影はないが、かっては昼なお暗い藪陰の道であった。 嫁おどし肉付けの面は今も吉崎にあり、信仰の力と蓮如上人の徳化の偉大さを物語る語り草になっている。
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