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8 下関の一里塚(坂井郡坂井町下関) 下関集落内の石団子の地旧跡を過ぎて、一面、田畑の一本道を北進していきますと、やがて前方左手に石碑が1つ見えてきます。 昔、ここに一里塚がありました。完全ではありませんが、「東塚」と言われる塚の原型が残されています。 この辺り一面、田畑が広がり、昔の旅は、ひとたび城下町や宿場を離れると一面、田畑があったり、 雑木林などがあったりで、狐狸が棲み、野良犬がうろつくなど、まことに淋しい旅であったことが実感されます。 まして冬など吹きさらしの野原を歩く旅人の姿を思い浮かべますとその大変さが身に沁みます。 写真石碑に記された説明文を引用します。 地籍 福井県坂井郡坂井町下関3字7っ畔22番一里塚 この一里塚は古代中国の様式を習い、慶長9年(1604)2月4日将軍令として全国主要道路に築かれたものである。 昔はこの街道の里程を知らせるのに役立ったもので旧北陸道の俗に「関の七曲り」といわれた地域に 道路標識的性格としてつくられ、現在では非常に貴重なもので近辺ではここ一ヶ所しか残されていない。 昭和41年当地の土地改良基盤整備の施行に際し、永久保存のため5メートル四方にわたり保護工事を行い残したものである。 昭和43年11月26日 坂井町教育委員会
9 金津宿と竹田川(坂井郡金津町) 金津は竹田河畔に発展した水陸の要所で、また北陸道の宿場としても繁栄してきました。 町並みは北陸道に沿って南北に伸び、典型的ないわゆる「街村」の南金津や北金津ができました。 そして市姫神社近くにあった市姫橋を渡り、北陸道は加賀国境へと続きました。朝倉時代には 重臣の一人堀江氏が、江戸時代には福井藩が、ここに金津奉行を配して金津以南の守りに当たらせました。 江戸時代には30匹の駅馬が義務づけられて、北は細呂木宿、南は長崎宿、その他三国湊、丸岡城下との往来もあった。 安永2年(1773)には旅籠屋60軒、揚屋20軒、遊女持7軒、遊女61人であった。また、当宿は六日町、八日町、十日町など定期市に由来する町名が多い。 橋には中世以来北陸道が通過し、南岸の下手は竹田川舟行上限の河湊で、三国湊へ舟を通じた。この水陸交通の十字路は物資集散地となり、そこに立った市の守護神が市姫神社である。 六日町、十日町はともに定期市にちなむ名であり、北金津は平安末期に興福寺の荘園として栄えた坪江荘の政所となり、同じ河口荘の政所もやがて本荘(芦原町)から南金津に移った。 近世には九頭龍川以北の川北領を支配する福井藩の奉行所が市姫神社の隣に置かれ、橋のたもとには制札場があった。 また、宿駅として南、北金津にそれぞれ問屋、本陣があり、当時は金津では竹田川唯一の橋であったから、常に人馬の往来でにぎわった。
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