街道の風景


西街道(馬借街道)


南条郡河野(河野浦)〜武生市(府中)

南条郡河野村の海岸風景


はじめに

 古来、敦賀から府中へ向かう経路には、北陸道をもっぱら徒歩で木ノ芽峠→今庄→府中へと辿っていくほかに、

 敦賀湾の海上7里の水運を利用して蕪木(甲楽城)浦などに上陸し、越前国府(府中)へ向かう経路があったようです。

 しかし、史料として現れるのは室町期以降で、当時は、主に塩、榑
(くれ)が運ばれていました。

 中世になると敦賀湾内の舟運を利用して、南条郡河野・今泉浦又は蕪木(甲楽城)浦に上陸して、

 ここから西街道を南条郡湯谷→丹生郡勾当原→南条郡広瀬→府中へと進む経路、

 南条郡湯谷→南条郡中津原→南条郡春日野→府中へと進む経路などいくつかのルートができました。

 舟運を利用することによって徒歩部分を最短にできるため、年貢米など重量物の運送に、この経路がよく利用されましたし、また一般旅行者も利用したようです。

 西街道というのは、府中から西へ向かう街道だったことから呼ばれるようになったといわれ、

 馬借街道というのは、主に物資輸送路だったので馬借(運送業者)が活躍したことによります。

 府中〜河野浦間4里(約15km)の街道には、広瀬、湯谷に宿駅ができ、今日でも両町の道路や家並みにその面影が残っております。

 明治7年5月に武生市春日野町と河野村具谷を結ぶ春日野隧道の開削工事が完成して、

 荷車による敦賀への道が開かれ、また、敦賀から武生へと鉄道が開通したため、この街道はさびれていきました。



西街道の経路図


1 西(馬借)街道の変遷

 西街道の経路をみますと南北朝期(1331〜1390)以前は、舟の上陸地点は蕪木浦(甲楽城)でしたが、室町期(1393〜1570)以降は、河野、今泉浦に変わります。

 蕪木浦が衰退した原因は、西街道の経路が変って、新たに今泉浦を起点とした短距離の

 経路が開かれたためと推測され、その結果、舟の入港地点も今泉浦または河野浦に変更になったものでしょう。

 新経路が整備された時期は分かりませんが、寛正6年(1465)の馬借中定書で今泉浦の馬借問屋中屋左衛門に

 絶大な権益が集中していることが知られていますので、寛正年間(1460〜1465)をややさかのぼる時点で道路整備が実施されていたものと思われます。




2 西(馬借)街道の経路

 上掲の西街道経路図でお分かりのとおり、今泉、河野浦から府中へ向かう経路は、いくつかありました。

 地元では、今も馬借(西)街道としての面影をとどめている経路、河野〜今泉〜中山〜湯谷〜下中津原〜大坂峠〜当ヶ峰〜広瀬〜馬場〜府中までの約15qを紹介しております。

 ただ上掲の経路図には下中津原から広瀬までの経路はついておりません




3 西(馬借)街道の主要箇所

(1) 河野浦
(南条郡河野村河野)

 矢良巣岳(標高472.7m)の南麓にあり、敦賀湊を擁する敦賀湾入口に位置した河野浦は、府中に通じる西街道の物資輸送に従事する浦馬借の住む村でした。

 地名の由来は、府中(武生)が国府であったことから、その外港として国府の浦
(こくふのうら)から「こふの浦」となり、

 「こうの浦」に転訛したという説と河野通有の子孫が定住したことによるとする説があります。

 室町期には河野浦として、その名が見え西街道の終点にあたりました。




(2) 今泉浦(南条郡河野村今泉)

 矢良巣岳(標高472.7m)の西麓にあり、敦賀湾入口に位置した今泉浦は、河野浦同様、府中へ通じる西街道の物資輸送に従事する浦馬借の住む村でした。

 中世、朝倉時代には今泉〜府中間の西街道は北国へ通ずる街道として重視され、永正12年(1515)には朝倉氏が惣国道路普請を命じています。

 近世になると西街道の馬借の仕事のほかに舟をつくり、東北や北海道方面へ船を出していました。下り荷は茶・木綿など、上り荷は昆布・干鰊などでした。



現在の河野村今泉の海岸通り 北前船主の館、右近家


(3) 今泉浦から梨ノ木峠(標高260m)・中山峠(標高248m)

 今泉浦の海岸通りから今泉川に沿って街道は山へ入っていきます。少し入ったところに口留番所跡があり、

 さらに杉林の多い谷筋を登っていきますと所々の岩の窪みに石仏が祀ってあります。

 途中、史跡「お題目岩」や「弁慶の足跡」の立て札があります。やがて谷筋の道が終って、梨ノ木峠へ向かって深く掘れた道が続きます。

 梨ノ木峠には祠に入った石地蔵が安置してあり、さらに暫く進みますと中山峠があります。

 これを下ると県道206号(甲楽城勝蓮花線)の中山トンネル付近に着きます。この間の所要時間は1時間30分程です。



今泉浦からの谷筋の道 梨ノ木峠に向かう掘れた街道


(4) 中山村(武生市中山町)

 矢良巣岳(標高472.7m)西麓の山間地に位置した農村ですが、府中(武生市)と日本海岸を結ぶ西街道に沿った路村としての性格を持っていました。

 中世(室町期から戦国期)には越前国丹生北郡山干飯保のうちの中山村として存在し、近世(江戸期)は越前国丹生郡中山村として、

 はじめ福井藩領に属しましたが、その後、幕府領、高森藩領、幕府領と変わり、明和元年(1764)から三河西尾藩領に属しました。



(5) 湯谷村
(武生市湯谷町)

 矢良巣岳(標高472.7m)の北麓に形成された盆地に位置した農村です。

 中世には越前国南仲条郡の湯谷村として存在し、寛正6年(1465)の山内馬借中定書によれば、湯屋(湯谷)の馬借として道善、浄徳、道一の3人の名が見えます。

 湯谷、別所、勾当原、中山、八田の5か村は、山内と称されて馬借のうちで強い権限を持っていました。

 近世になると越前国南条郡湯谷村として福井藩領に属しました。当村は湯谷宿とも称され、

 駅が置かれて駅馬1匹の常置が義務付けられ4人の馬借がいました。

 河野浦から湯谷村間の駄賃は、寛永14年(1637)以降、31文(カラ尻は20文)でした。




(6) 下中津原村
(武生市下中津原町)

 矢良巣岳(標高472.7m)の東北麓に形成された盆地に位置した農村です。中世には越前国南仲条郡の中津村として村名が見えます。

 永正5年(1508)の浦、山内馬借中定書写に当村の馬借として、道かう、常心が見え、

 山内(湯谷、勾当原、別所、中山、八田)の馬借の支配下と定められています。

 天正18年(1590)の府中知行目録では「上中津原」394石余、「下中津原」563石余とありますから、この頃には上下に分かれていました。

 江戸期には越前国南条郡下中津原村として、はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、明和元年(1764)から三河西尾藩領になりました。



下中津原の西(馬借)街道入口 西(馬借)街道


(7) 下中津原町から広瀬町追分へ 

 県道(湯谷王子保停車場線)沿いにある下中津原町の街道案内板に従って、舗装された農道を北進しますと史跡保存地区の街道に着きます。

 この保存された道を上っていきますと、やがて緩やかな道となり大坂峠に到着します。

 峠には地蔵さんが祀られ、峠のすぐ下から広瀬町や武生市内が一望できます。

 峠から深く掘られた道を下っていくと、途中、馬の荷直し道が2箇所、地蔵さんの祀られた水のみ場が1箇所あり、

 やがて街道の案内板のあるところに着きます。ここまでの距離は約1.5km、所要時間は約1時間です。



大坂峠とお地蔵さん 大坂峠付近から武生市内を見渡す


(8) 広瀬村(武生市広瀬町)

 日野川の中流に広がる武生盆地の西部、同川支流の吉野瀬川が形成した河岸段丘とそれに続く

 扇状地に位置し、かっての府中〜河野・今泉浦の西(馬借)街道に沿って東西に発展してきた街村です。

 中世には越前国南仲条郡広瀬村として見え、近世になると上広瀬村、下広瀬村に分かれましたが、明治初年に合併して広瀬村となりました。

 江戸時代、当村には駅が設けられて10匹の駅馬が義務付けられ、道幅は2間半、縁3尺の定めがありました。

 貞享2年(1685)には枝村として当ヶ峰(塔ヶ峰)、馬塚がありました。

 このうち馬塚は下広瀬地籍の東方に位置し、馬借の問屋がいて、勾当原・中山の馬借の荷物は、ここで府中の馬借に継ぎ渡されていました。

 馬塚〜湯谷間の道程は2里で、寛永14年(1637)〜寛文元年(1661)の駄賃は、60文でした。

 馬塚には茶屋が3軒あり、広瀬、勾当原、中山の者が経営していました。



西(馬借)街道の水のみ場 武生市広瀬町にある追分


(9) 西(馬借)街道関連の歴史事項

〇 鎌倉時代


 「けいたう坊」という山伏が舟に乗るため西街道を急いで下りてきたところ、敦賀通いの便船は、今しがた蕪木浦(甲楽城)を出航したばかりであった。

 怒った山伏は、無謀にも引き返せとわめき、ついに念力をもって舟を戻したとあり、これが西街道の初見です(「宇治拾遺物語」三)。

〇 南北朝時代


◎ 北陸方面へ向かう恒良親王を気比大宮司太郎が小舟に乗せて敦賀から蕪木浦に送り届けたとあります(「太平記」巻一八)。

◎ 延元2年(1337)北朝方の斯波高経が、この道を通って蕪木浦から出航し、敦賀の金ヶ崎に立て籠もる新田義貞の南朝軍を攻めたとあります(「太平記」巻一七)。

〇 室町時代


 西(馬借)街道沿いに蓮如上人(1415〜1499)や真盛上人(1443〜1495)の遺蹟が伝えられていることから、この街道を利用されたと推測されます。



〇 戦国時代


◎ 越前守護朝倉氏は織田信長の侵略に備え、街道の道幅を9尺、側溝を設けて排水に留意し

 非常時の軍用道として利用できるよう配意した記録が残っています【道路普請、永正元年(1504),永正13年(1516),天文3年(1534)】。

◎ 天正元年(1573)織田信長が朝倉義景方へ攻め入った際、羽柴秀吉勢は河野浦へ上陸して今泉から西街道を通って府中へ攻め入り、

 柴田勝家軍と合流して朝倉方を打ち破っています。この時、朝倉方の西街道筋の民家や寺は悉く焼き払われたそうです。

◎ 天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆攻めの際、明智光秀、羽柴秀吉の軍勢は、河野方面から府中へと攻め入っております。


主な参考文献

角川日本地名大辞典         18福井県
福井県史 通史編2             中世
歴史街道             上杉喜寿著
峠のルーツ            上杉喜寿著
加賀・越前と美濃街道 吉川弘文館発行



 

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