街道の風景


鎌倉街道


越前府中(武生市)〜温見峠越(大野市)



武生市の街並み(昭和41年頃) 武生市の街並み(昭和41年頃)


1 鎌倉への道


 およそ820年前、源頼朝は鎌倉に幕府を創設するや、各地に守護と地頭を配置して御家人制度を確立しました。

 これは将軍と御家人(家来)との主従関係を強固にし、中央集権を図ろうとしたものですが、将軍は御家人に対し、

 彼らの保有する土地支配権を保証したり、新たな土地を与えたりして、その主従関係の絆を強めようとしました。

 御家人たちは、これを御恩と呼び、領地を媒介として主従関係をより密接強固なものにしました。

 奉公次第で領地を倍増することも可能でしたので、恩賞に預かりたいものと、一旦事ある時は

 家の子郎党を引き連れ、いち早く、鎌倉に馳せ参じることをご奉公の第一義としました。

 ここから「いざ鎌倉」という言葉が生まれたようです。この場合、一時でも早く馳せ参じるには、自分の領地から鎌倉に至る近道を知っていなければなりません。

 また、常日頃から「この日」のために、道の整備をしておく必要がありました。これが「鎌倉街道」の由縁です。

 当時、越前国から鎌倉に向かうのに数本の道があり、その最たるものが府中(武生)から粟田部〜池田板垣〜水海〜巣原〜

 熊河〜温見〜能郷〜本巣〜井ノ口(岐阜)へ出て、それから東海道をまっしぐらに鎌倉へ走るのが、一番の近道だったと伝えられます。



武生市の街並み(昭和41年頃) 武生の街並み(大正時代)


2 越前府中(武生市)

 古代の越前国府の所在地から発展した府中は、中世、守護所が置かれ政治の中心地でした。

 街の中を街道が通り宿場町の機能を持っていたうえ、多数の寺院が存在し門前町としても栄えていました。

 越前国内に戦乱が起こると、この府中は必ず争奪の対象になりました。 南北朝期には新田義貞が

 北朝方の斯波高経を新善光寺城(現在の正覚寺の寺域か)に攻めて勝利した後、府中は、しばらく南朝方の脇屋義助らの拠点になりました。

 室町期には小守護代二人がここに配置されたこともあって、応仁・文明年間(1467〜1487)の守護代甲斐氏と

 朝倉氏との戦いでも攻撃目標とされ、文明4年(1472)8月に朝倉氏が府中を制圧して、ようやく合戦の帰趨が決しました。

 しかし、朝倉氏は本拠を一乗谷に置き、この府中には小守護代の職務を継承した府中奉行人(府中両人)を配置するにとどめました。


3 味真野(武生市味真野町)

 日野山の北東麓、文室川の上流域の扇状地に位置した、奈良時代から見える古い地名で越前国今立郡九郷の1つです。

 古代から中央との関係が深く、継体天皇に関する伝説も多く謡曲「花筺」の舞台になっていますし、

 北東部にある池泉町には、皇子時代の御所があったところと伝えられています。

 また、「万葉集」で有名な狭野弟上娘子との仲を裂かれた中臣朝臣宅守の流罪地でもあります。



味真野神社 神社境内の謡曲「花筺」の石碑


4 粟田部(今立郡今立町粟田部)

 府中から粟田部へは昔の北陸道を利用して、味真野を経由し粟田部に至りました。

 粟田部から板垣坂を越えて池田へ入り、水海を経て巣原峠から巣原に出るか、あるいは熊河に直行し、温見から峠を越えて根尾谷を下りました。

 ただ、鎌倉時代の粟田部については全く不明で、史料が散見され始めるのは南北朝争乱時代からです。

 しかし、継体天皇と関係深い土地で、地名の由来は、一説に継体天皇の皇子名、男大迹から大迹部、次いで粟田部へと転訛したともいわれます。

 戦国期には商人や職人らしい屋号を持つものが多くなり、粟田部は、この地域の商工業の中心地となり

 月尾谷、服部谷、河和田谷などからの物資が集散する在郷町として発展していきました。



粟田部の粟生寺 五箇の大滝神社


5 池田水海(今立郡池田町水海)

 池田は越前国府の府中に近く、また、足羽川の源流に位置し美濃国越えの要地として栄えました。

 「池田」または「池田の荘」という地名が最初に見られるのは、文治2年(1186)源頼朝が池田の荘を仙洞御所の造営料として寄進する記事からです。

 水海の鵜甘神社に伝わる田楽能舞の由来は、鎌倉中期(1259)、ときの執権北条時頼が諸国行脚で池田を通過途中、

 雪に閉じ込められて立ち往生した際に当村に逗留し、村人に能舞を教えたのが始まりと伝えられます。

 現在は国の無形文化財に指定され、毎年2月15日に奉納行事が開催されて田楽能舞が伝承されています。

 この舞いの特徴のひとつは、農民土着の田楽に中央の上流階級のみに伝わっていた能が加えられている点にあるといわれます。



池田町水海の田楽能舞 池田町稲荷の須波阿須疑神社


6 巣原(大野市巣原)

 雲川左岸に位置した村名ですが、無人となって久しく、地名だけが残っています。

 池田町美濃俣から東に向かって巣原までの山道は、約10キロメートル、その中間に巣原峠がありますが、今は利用されていません。

 かっては、府中で仕入れた燈油、黒砂糖、塩、木綿などを、巣原、温見や奥美濃の大河原、能郷付近まで運んで売捌き、

 この売上金を持って、井ノ口(岐阜)まで足をのばし、番傘、提灯、瀬戸物などを仕入れて、帰るという商法が続けられました。

 また、村の南東には、越中倶利伽羅合戦で敗退した平家の落武者60軒が、隠れ棲んだ所と伝えられる「平家平」へ直結する道もありました。

 村人にも平家の血が混じったと伝承され、旧盆になると、氏神神明神社の境内で踊られた平家踊り(太鼓踊)は、県無形民俗文化財に指定されています。


巣原峠を望む 巣原峠の石仏


7 熊河(大野市熊河)

 雲川の左岸、同川支流の熊河川との間に位置した村名ですが、無人となって久しく、地名だけが残っています。

 池田町美濃俣から東に向かって熊河までの山道は、約10キロメートルあり、その中ほどに熊河峠があります。

 鎌倉時代から下った中世、温見金山で産出した金銀は、この道を通り、朝倉氏の居城のあった一乗谷へ運ばれたといわれます。              



8 温見(大野市温見)

 雲川の最上流右岸に位置した村名ですが、無人となって久しく地名だけが残っております。

 かっては、村の際を西から南へそそり立つ能郷白山と越山の稜線鞍部に温見峠があって、細く険しい山道が続いていました。

 この道とは別に美濃長谷原に至る栃木峠も、よく利用されたといわれます。冠山の戦いで、

 源氏に敗れた平将門が温見、小沢を行き来したという伝承があります。

 村にはマサカド墓と伝える室町期型式の宝筺印塔があり、マサカドの子孫という三家が

 「三人衆」と称して村の政治を采配し、毎年2月3日マサカド祭りを伝承していました。

 今は無人となった旧温見村の中を国道157号が温見峠へと通じています。


温見峠付近の石碑 温見峠の石仏


9 温見峠(大野市温見・岐阜県根尾村)

 福井県大野市と岐阜県根尾村との県境にある峠で、能郷白山の北の鞍部にある標高約1,050mの峠です。

 この峠道も美濃街道といわれ、古来、越前と美濃間を結ぶ主要道路であったといわれ、鎌倉への最短交通路でもありました。

 南北朝期に脇屋義助らが越え、戦国期には朝倉氏が、ここから美濃へと攻め入り柵を構えたと伝えられます。

 近世にも結城秀康が関を設けていますし、下っては鯖江誠照寺門主の美濃檀家廻りの巡回路になっていました。

 明治以降、峠を越える人が次第に絶え廃道になっていましたが、国道の改修により自動車が通じるようになりました。

 ただ、豪雨や積雪で通行止めも多く、峠下の温見や大河原などは廃村になりました。




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