芭蕉の足跡(その1)



気比神宮境内の芭蕉石像
奥の細道素龍本と伝来記


〜はじめに〜

 松尾芭蕉は、紀行文「奥の細道」の序文で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。

 船の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いを迎ふるものは、日々旅にして旅を栖とす。

 古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやず」と彼の人生観、旅への強い思いを述べております。

 今から314年前の元禄2年
(1689)3月、46歳の芭蕉は江戸から「奥の細道」の旅に出ました。

 関東・東北を巡り、8月7日
(陽暦9月20日)頃、加賀大聖寺の全昌寺から越前吉崎へ入り、

 北陸道を南下して松岡天竜寺、永平寺、そして福井から木の芽峠を越えて敦賀へ向かいました。

 そこで郷土越前
(福井県)における芭蕉の足跡を辿ってみました。



 〜全昌寺〜




 大聖寺の城外、全昌寺といふ寺に泊まる。なほ加賀の地なり。曾良も前の夜この寺に泊まりて、

「夜もすがら秋風聞くやうらの山」<曾良>

と残す。

 一夜の隔て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮に臥せば、あけぼのの空近う、読経声すむままに、鐘板鳴って食堂に入る。

 今日は越前の国へと、心草卒にて堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかかへ、階のもとまで追ひ来たる。折ふし庭中の柳散れば、

        「庭掃いて出でばや寺に散る柳」<芭蕉>

とりあへぬさまして、草鞋ながら書き捨つ。



説 明

◎ 大聖寺

 石川県加賀市大聖寺。当時、前田飛騨守利明七万石の城下町であった。

◎ 全昌寺

 加賀市大聖寺神明町にある熊谷山全昌寺。大聖寺城主、山口玄蕃頭宗永の菩提寺。曹洞宗。

◎ 曾良

 本名は岩波庄右衛門、後に河合惣五郎と称した。曾良はその俳号で長野県上諏訪の生まれ、芭蕉より5歳年下であった。 

 彼は伊勢国
(三重県)長島藩に仕えたが、後に江戸に出て吉川惟足に神道を学び、また芭蕉の門人となった。深川の芭蕉庵近くに住み、その生活を助けた。

 「奥の細道」の旅では「奥の細道随行日記」を残し、「奥の細道」研究の重要資料になっている。奥の細道随行中、体調を崩して加賀山中温泉で芭蕉と別れた。

 そして一人、三重県長島町にあった親類、大智院へ行き約半月静養した。このため加賀から越前国内における芭蕉の足跡に不明な点がある。



 〜吉崎汐越の松〜


 越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。


「夜もすがらあらしに波を運ばせて月を垂れたる汐越の松」<西行>


 この一首にて数景尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。



説 明


 
芭蕉は、吉崎御坊前の入江を舟で渡って、向こう岸から汐越の松がある山中に入ったものと考えられます。

 今日、汐越の松というのは、吉崎の対岸にある芦原ゴルフ場内の日本海に沿った海岸に群生している松林の松を呼ぶようです。

ここに「奥の細道汐越の松遺跡」と彫られた石碑があります。

             
     

〜天龍寺〜



 
 丸岡天龍寺の長老、古き因みあれば尋ぬ。また、金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りてこの所まで慕ひ来たる。

所々の風景過さず思ひつづけて、折ふしあはれなる作意など聞こゆ。今すでに別れにのぞみて

         「物書て扇引きさく余波哉
(なごりかな)<芭蕉>



説 明

 芭蕉は、汐越の松から松岡の天龍寺を目指しました。曾良日記に書かれた道順で推測すれば、

 恐らく芭蕉も北潟から舟で対岸に着き、金津へ入って、丸岡を通って松岡へ向かったのではないかと思います。

 天龍寺は、永平寺末寺の寺院で、当時の住職は、大夢和尚でした。芭蕉は、「丸岡天龍寺の長老、古き因みあれば尋ぬ」と書いておりますが、丸岡は松岡の間違いです。

 この松岡で、金沢から芭蕉に従って来た門人、北枝と別れることになりました。そこで扇に別れの句を書き、

 これを引き裂くように二人は別れて、その名残が惜しいという意味の句を詠んだのです。

 芭蕉が松岡に来たのは、たぶん8月8日
(陽暦9月21日)か9日の夕刻のことで、その夜は天龍寺に宿泊したと思われます。永平寺参詣は、その翌日、9日か10日のことでしょう。




◎ 天龍寺

 吉田郡松岡町春日にある曹洞宗の寺。松平家の菩提寺。寺領二百石。山号は清涼山。当時、松平中務大輔昌勝、知行五万石の城下町だった。

◎ 北 枝

 立花氏。通称、源四郎。小松の生まれで金沢に住み、研師を業とした。初め談林派の俳人であったが、

 芭蕉来遊とともに兄の牧童とともに蕉門に入り、以後、加賀蕉門の中心的人物として重きをなすに至った。




〜永平寺〜


 

 五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。邦畿千里を避けて、

かかる山陰に跡を残したまふも、貴きゆゑありとかや。








説 明

 五十丁山の中に入って永平寺に詣でる。道元禅師の寺である。都に近い地を避けて、

 このような山の中に住んでおられたのは、貴い理由があるのであろうかと、山深い地にある永平寺を拝し、深い感慨にふけったようです。


◎ 永平寺

 現在、福井県吉田郡永平寺町にあり山号を吉祥山と称し、曹洞宗の大本山である。

 開山は道元禅師、後嵯峨天皇の寛元元年
(1243)時の領主波多野義重が堂宇を創建し、道元を招いて寄進したという。

 初め大仏寺と称し、寛元4年
(1246)永平寺と改める。当時、寺領二百四十石余であった。


〜福 井〜

 
 
福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、たそがれの道たどたどし。 ここに等栽といふ古き隠士あり。いづれの年にか、江戸に来たりて予を尋ぬ。 

 はるか十年あまりなり。いかに老いさらぼひてあるにや、はた死にけるにやと、 人に尋ねはべれば、いまだ存命にして、そこそこと教ふ。





 市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に、夕顔・へちまの生えかかりて、鶏頭・帚木に戸ぼそをかくす。

 さてはこの内にこそと門をたたけば、わびしげなる女の出でて、「いづくよりわたりたまふ道心の御坊にや。

 あるじはこのあたり何某といふ者の方に行きぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。かれが妻なるべしと知らる。

 昔物語にこそかかる風情ははべれと、やがて尋ねあひて、その家に二夜泊まりて、名月は敦賀の港にと旅立つ。

 等栽もともに送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折
(しおり)とうかれ立つ。


              


説 明

 現在、永平寺から福井へ来るには、越坂トンネルを抜ける道があって便利になりました。

 しかし、江戸期の永平寺道は、志比庄寺本、京善村方面から恋坂峠
(現在の越坂峠)を越えて、

 上中村追分から勝山街道を通り福井口に出るのが一般的でした。芭蕉もこの道を通ったものと思います。

 芭蕉が福井を訪れたのは、次の敦賀入り8月14日より逆算して、8月11日
(陽暦9月24日)ごろと思われます。福井に入ると、等栽という知人の家を訪ねます。

 この家は、現在、左内公園の中にあります。福井の町へ入ってから足羽川に架かる九十九橋を渡って

 橋南に入りますから、福井口からかなりの距離があり、相当分かりにくかったと思います。

 等栽という人物について、その身分は何も書かれておりません。芭蕉が隠士と言っておりますから、

 世間から逃れて外に出ない風流人だったのでしょう。恐らく、俳句を作って何とか生活していた人のようです。

 等栽の家で二泊した芭蕉は、8月13日
(陽暦9月26日)早朝、福井を出発します。8月15日の名月を敦賀で見たかったからです。

 等栽も道案内でお供しましょうといって、着物の裾を面白くからげて浮き浮きした様子でした。右上の左内公園内石碑には、次の句が彫られてあります。


「名月の見所問ん旅寝せん」<芭蕉>



〜旧北陸道と玉江跡〜





説 明

 この辺りは葦の歌枕で有名な玉江の跡です。現在は福井市花堂中2丁目のきつね川に架かる玉江二の橋があります。

 昔は低い土地で、よく川が氾濫するし、排水も不十分だったため、いつも沼のようになっていて、一面に葦が茂っていたそうです。芭蕉はこの地を訪れたとき、

「月見せよ玉江の葦を刈らぬ先」<芭蕉>
の句を読んでいます。



〜あさむつの橋〜




説 明

 芭蕉は「あさむつの橋をわたりて、玉江の葦は穂に出でにけり。」と書いておりますが、さきに玉江の葦が穂を出している所を見ながら通過し、

 その後、浅水宿のあさむづの橋を渡るの順路です。ここで次の句を詠んでいます。

「あさむつを月見の旅の明離」<芭蕉>

あさむつ橋(朝六橋)は「枕草子」にも書かれ、平安時代の催馬楽(さいばら)にも唄われていて、当時、全国的名所になっていました。



芭蕉の足跡(その2)