街道の風景


朝倉街道(1)

越前一乗谷

戦国大名朝倉氏の城下町を復元 一乗谷朝倉氏館跡の唐門


◎ 朝倉街道の概要

 戦国時代、越前守護になった朝倉氏は、戦略的な観点から北陸道のほかにいくつかの街道を改修、整備して活用したようです。

 1つは、鯖波〜新河原の渡し〜牧谷峠〜野大坪〜粟田部〜野岡〜榎坂〜東郷〜成願寺の渡し〜

 河水〜坂下〜小畑坂〜下吉野〜松岡〜鳴鹿の渡し〜丸岡(長畝)〜牛ノ谷というコース。

もう1つは、粟田部〜庄境〜戸ノ口〜東大味〜東郷〜天神の渡し〜成願寺〜小畦畷〜河水〜

 堅達〜原目〜中ノ郷〜中ノ郷の渡し〜渡新田〜丸岡(長畝)〜牛ノ谷というコース。

 これから派出した「武者道」といわれたものに安波賀〜高田〜宇坂大谷〜市野々越〜市野々〜東古市〜鳴鹿の渡し〜丸岡(長畝)〜牛ノ谷というようなコースがありました。

 これらはいくつかの合戦記の中に必ず登場してきます。後世の史家はこれを「朝倉街道」と記述しています。

 朝倉氏は、こうした道路を改修して外敵の侵攻に備えました。越前国内を北陸道と朝倉街道の二本をもって

 南北を縦貫させ、いざ合戦という時に迅速果敢、かつ神出鬼没の用兵により敵を制してきました。

 しかし、織田信長の侵攻を受けたときは、皮肉にも一族の離反と反撃によって、もろくも瓦解し滅亡しました。




◎ 一乗谷(福井市城戸ノ内町)

 
一乗谷は、越前平野の東部、一乗山(標高741m)の西麓を源流とする一乗谷川によって形成された南北に細長い山間の盆地です。

 この谷間に中世、戦国大名に成長した朝倉氏が山城を構え、麓に城下町をつくって1世紀有余の間、越前(福井県)を支配しました。

 一乗谷は、当時、越前の主要交通路であった北陸道から東にはずれ、一見、奥まったところにあるようですが、

 陸路は、美濃街道が大野を経て美濃(岐阜県)へと通じ、水路は足羽川から九頭竜川を経て三国湊(日本海)に至りました。

 また、一乗谷を拠点にして、南は白鬼女渡し(鯖江市上鯖江)から日野川を渡って府中(武生市)へ

 さらに牧谷越え(武生市・南条町)で、鯖波(南条町鯖波)から北陸道に合流し、近江(滋賀県)や京(京都)へ通じていました。

 北は足羽川、九頭竜川を渡って丸岡(豊原、長畝)、牛ノ谷を経て、加賀(石川県)へと通じるなど天然の要塞として非常に適した位置にありました。


この付近の地図参照


◎ 朝倉氏戦国大名に成長するまで

 南北朝時代の建武3年(1336)朝倉広景は、足利尊氏の命を受けて越前に派遣された守護斯波高経に従い越前に入りました。

 足羽川が九頭竜川に合流する近くの黒丸(福井市黒丸町)に居城を定めて以来、朝倉氏は広景、高景、氏景、貞景、教景、家景と六代、およそ135年にわたり次第に力を蓄えていきました。

 そして守護の斯波氏、守護代の甲斐氏、有力な国衆の堀江氏を押さえ、応仁・文明の乱で地位を不動のものにしました。

 六代家景の嫡男で一乗谷朝倉氏の初代となる孝景は、文明3年(1471)5月越前国守護職に補任されました。

 この頃、黒丸から一乗谷に居城を移したとされますが、近年、朝倉氏が一乗谷を本拠地にしたのは、もっと早く第4代貞景の頃(14世紀末から15世紀初頭)でなかったかといわれています。



一乗谷下城戸の土居跡 一乗谷下城戸の食違い跡


越前一乗谷(福井市城戸ノ内町)から鯖波(南条郡南条町鯖波)まで



◎ 朝倉街道を訪ねて

 越前朝倉の祖、広景から11代230年、越前守護英林孝景から5代100有余年続いた朝倉氏は、天正元年(1573)織田信長に滅ばされ、歴史の幕を閉じました。

 そして430年後の現在、朝倉街道も歴史の中に埋もれてしまいました。しかし、自然の山や川は、今も往時の風景、面影を残し、所々に遺跡、伝承も残されています。

 そこで一乗谷を起点に往時の街道を探しながら南進(上り)し、次に北進(下り)してみたいと思います。ところで朝倉街道は、どのような経路を辿っていたのでしょうか。

 江戸時代に書かれた「越藩拾遺録」に『東ハ丸岡ヨリ鳴鹿ヘ至リ、此川ヲ越へ松岡ヘ出、

 下吉野ヲ経テ小畑坂ヲ越へ、阿波カ原ヨリ成願寺渡村ニテ川ヲ越ヘ東郷へ出、榎木坂ヲ越ヘ粟田部、五箇へカカリ

 牧谷坂ヲ越ヘテ新河原ノ渡シヨリ鯖波ニ出ル。榎木坂此方ニテ東ノ方鹿俣坂ヲ越ヘテ一乗へ出ル道、此頃ノ大手ナル由』とあります。

 この史料では詳しい経路まで分かりませんが、大まかな経路は推測できます。



朝倉時代の石仏 朝倉時代の石仏


◎ 福井市内の経路(一乗谷から榎坂まで)

 城下町一乗谷の上城戸(福井市城戸ノ内町)を出て、県道鯖江美山線から一乗小学校前で分岐する

 県道一乗谷朝倉氏遺跡大味線に沿って西新町、鹿俣町と進んでいくと、やがて坂道になっていきます。

 当時、この道は鹿俣越(初坂越)と称して一乗谷への大手道に当たり、城下を発して最初の坂道であったことから初坂とも呼ばれました。

 また、京、上方へと向かう上りの街道筋に当たりました。現在は、車が通れる山道になりましたが、近年までこの付近に敷石の道が残っていたそうです。

 また鹿俣(初坂)を越えて、ふもとの東大味町に入った辺りを茶屋出と呼び、「越藩拾遺録」に

『昔此筋ニ東大味村遊女町アリシ由、浅黄ノレンニ松皮御紋入出格子テカクレナイ、誠ニ昔ノ跡歴然タリ』とあり、朝倉時代には遊女町があったと伝えられています。

 他方、東大味町地内の東部山麓には朝倉家中島但馬の屋敷跡、東南部には明智日向守光秀の屋敷跡、北部には今井新兵衛の屋敷跡があったといわれます。

 ここには光秀を祀る『明智さま』と呼ぶ小堂が現存しておりますが、光秀の屋敷跡が

 朝倉義景に仕えていた頃のものか、天正元年(1573)織田信長の越前平定後に一時居住したものかは不明です。

 このように東大味町、西大味町には朝倉時代の遺跡が数々伝承されております。次いで西袋町(福井市)から榎坂(標高136m)を越えて鯖江市へと入ります。  
           
この付近の地図参照


西新町から鹿俣町へ 鹿俣坂付近
東大味町南麓にある『明智さま』 榎坂トンネル付近から榎坂への登り口


◎ 鯖江市内の経路(榎坂から川島町まで)

 現在は峠下に榎坂トンネルがあって便利ですが、当時の朝倉街道はこの峠を越えました。

 この坂には南無妙法蓮華経と刻まれた題目岩があり、弘治年間(1555〜1558)一乗谷慶隆院の日諦の筆になるといわれます。

 峠を越えて大正寺町、四方谷町、吉谷町を経て橋立町(以上鯖江市)に至ります。橋立町は文殊山(標高366m)の支脈、

 橋立山(標高261m)の南、浅水川と鞍谷川の合流点からやや川上に位置した集落ですが、

この北にある白山神社一帯は、朝倉義景時代の砦跡といわれ、御上屋敷、木戸口などの字名が残っております。

 次いで舟枝町、中野町(鯖江市)を経て、進路を東にとって川島町へ向かいます。

 進路を西にとり、曲木から横越町、定次町、五郎丸町を経て、上鯖江町で北陸道に合流し、

 白鬼女橋を渡って府中(武生市)へ向かう道も朝倉街道の経路の1つと伝えられていますが、ここでは省略します。

 川島町は三里山(標高346m)の北東麓に位置し、地内のほぼ中央を鞍谷川が南流しています。

 地内西端には「延喜式」に見える加多志波神社があり、南北朝期、新田義貞についた河島左近蔵人維頼の信仰が篤く、

 近隣数ヵ村の鎮守として栄えたとあり、地内東端の田畝中には朝倉観行院の城跡あったと伝えらています。


この付近の地図参照


橋立町の白山神社から橋立山を望む 新堂の鞍谷川沿いから行司ヶ岳を望む


◎ 今立郡今立町内の経路(新堂から五箇地区まで)

 川島町(鯖江市)を過ぎ、三里山の東麓、鞍谷川と服部川の合流した辺りに新堂(今立町)があります。

 地名の由来は、国中大明神三十八社の別当職であった真言宗宗匠院が、康正元年(1455)川島地籍の字鳥越に移って、堂宇を建立したことから新堂と呼ぶようになったといわれます。

 次いで、三里山の東麓を南下し、中津山、野岡、粟田部へと向かいます。中津山と野岡との境の背後に行司ヶ岳(標高311m)があります。

 山頂部の北東から南西に走る尾根上に、500mにわたる堀切があり、その間に多数の郭が構築されています。

 中世の山城があったところで、「類聚越前国誌」に『朝倉氏一族、朝倉出雲守景盛の墟ナリ、

 景盛刀禰坂ニ戦死シテ城廃ス』と記され、朝倉出雲守景盛の居城があった所です。

 この行司ヶ岳の南東麓、鞍谷川の中流域に粟田部があります。中世の粟田部には朝倉氏一乗谷奉行人であった小泉長利の所領があり、

 天文22年(1553)11月17日、朝倉氏や小泉氏先祖の菩提として当地の粟生寺に田畑が寄進されています。

 粟田部を過ぎると五箇地区です。五箇は武生盆地の東部に位置し、古代から越前和紙の産地だったところです。

 今立町南部の不老、大滝、岩本、新在家、定友の5集落が集まって五箇と呼び、国府(武生市)や味真野(武生市味真野)にも近かったので、紙の需要が多かったようです。

 また大滝には、泰澄大師が養老3年(719)に創建したという大滝児大権現、後の大滝寺(大滝神社)がありますし、

 中世には紙座を結成して生産販売の独占権を得、朝倉氏などから保護されました。大滝の北東、権現山(大徳山)の山頂尾根頂部に南北朝期の大滝城跡があります。


この付近の地図参照


今立町の粟生寺 今立町の大滝神社大鳥居


◎ 武生市内の経路(五分市町から萱谷町まで)

 五箇(今立郡今立町)を過ぎると武生市です。朝倉街道は五分市町、池泉町、味真野町、上大坪町と南下し、萱谷町から山間へ入って牧谷坂を越えます。

 池泉町は鞍谷川の上流域、味真野扇状地に位置した武衛山の北西麓にあります。この地の味真野神社境内は、中世の居館跡(鞍谷御所址)で土塁で囲まれた部分が残っております。

 ここに越前守護斯波義廉の子息義俊が鞍谷氏と称して居住した所といわれます。

 義俊は応仁の乱の原因にもなった斯波家家督相続争いの斯波義廉の子息で、朝倉氏によって

 名目上の守護として越前に迎えられ、はじめ一乗谷に在住しましたが、文明18年(1486)この地に移ったようです。

 子孫は代々鞍谷氏を称し、朝倉氏と婚姻関係を結びながら居住し、朝倉氏滅亡後は小丸城を築城した

 佐々成政と臣従関係を結びました。他方、この地は古代の男大迹王(継体天皇)のゆかりの地という伝承があります。

 池泉町からさらに南下し浅水川(文室川)の上流域にある上大坪町を過ぎ、浅水川上流域の山間部、日野山東麓にある萱谷町に入ります。

 ここには積善寺があります。古くは真言宗寺院でしたが正応3年(1290)時宗となり、のち朝倉氏の帰依をうけて一乗道場とも称しました。

 しかし、朝倉氏の滅亡及び朝倉街道の衰退に伴い寺勢も衰えましたが、古くからの日野山信仰を集める日野神社の別当寺的存在を兼ねていたため、その後も礼拝をうけ、

特に8月24日の日野山御岳まつりには御来光を拝むためにたくさんの人々が同寺から山頂を目指しています。


この付近の地図参照


〇 武衛山城(標高321m)

 文明年間(1470年頃)、越前守護職斯波義敏が武衛山の山頂に城を築いたと伝えられています。

 城跡は四方の見通しが良い上、周辺は急斜面で容易に攻め難く、その周囲には土豪を掘り廻らした形跡があります。

 以前は石垣を使用した無数の石も見られたそうです。通常は味真野神社周辺に土豪を作り館に居住しましたが、いざ合戦となれば武衛山頂に陣を敷いたとのことです。



武生市の味真野神社鳥居 鞍谷御所址の土塁


◎ 南条郡南条町の経路(牧谷越から鯖波まで)

〇 牧谷越え
(武生市・南条町)

 牧谷坂ともいい、南条町牧谷側では萱谷坂ともいわれ、武生市萱谷町と南条町下牧谷の間、日野山の東の鞍部にある標高488mの峠です。

 朝倉街道はこの峠を越え鯖波へ向かっていました。現在、萱谷町から車で途中までは行けるようですが、峠を越え南条町へ下ることはできません。

 峠には笏谷石で作られた江戸期の経塚があります。坂を下りますと谷の途中から一乗谷川が流れており、

 川に沿って山道を下りますとやがて県道池田南条線と交差して南条町下牧谷に至ります。

 一乗谷川は牧谷川に合流し日野川へ向かっています。当地は現在、上牧谷と下牧谷に分かれていますが、古くは牧村と称されました。

 朝倉孫右ヱ門尉広景は家臣の関源太夫をこの地に置き、峠の拠点として守備を固めさせたと伝えられます。



牧谷坂登り口にある石 左 同


〇 新河原の渡し(南条郡南条町関ヶ鼻付近)

 この辺りは蓮光坊山の東麓、北流する日野川との間に開けた地です。地名の由来は新しく開けた所という意味でしょう。

 中世、この付近がどんな状態であったか分かりませんが、江戸初期には新河原茶屋村
(新河原村)が東大道村(南条町東大道)の枝村として存在します。

 当地は、当初東大道村の荒河原だったようですが、福井藩領となってから結城秀康の

 家老本多富正が村人の建議を入れて開拓させたといいます。関ヶ端、上関などとも呼ばれました。



日野川の中流域、鯖波付近 関ヶ鼻にある鶯の関跡の石碑


〇 鯖波(南条郡南条町鯖波)

 日野川の中流域、蓮光坊山の東麓に位置する地名です。古くは済羅
(さわあみ)と云ったそうです。

 済は「多」、羅は「網」という意味で網の多いところ、すなわち付近に大きな沢があり、

 魚が沢山とれ、家々には多くの漁具
(網)が干してあったところから、この地名が生じたのではないかというのです。

 時代が下り、南北朝期には「済羅」から「鯖並」になり江戸期に「鯖波」となりました。

 暦応4年
(1341)1月、南北両朝の軍勢による合戦が鯖並、脇本、大塩で行われ、北朝方の得江頼員は大将吉見頼隆に属して忠節を尽くしたとあります。

 また、同年6月にも北朝勢は鯖並、杣山城に押し寄せ、敵を追い落としています。「太平記」には「鯖並ノ宿」と記され、ここに「関」が設置されていたようです。

 延徳3年
(1491)3月7日条「冷泉家為広卿越後下向日記」には、敦賀より国府までの行程の途中「サハナミ」を通過しています。

 このように鯖波は古くから軍事上、戦略上の要地でしたが、上杉喜寿著「歴史街道」に関ヶ鼻に関し次のように記しています。

『朝倉街道は関ヶ端で兵力を二分し、1つは奥野々から菅谷を経て杉津に出て、海路を敦賀に渡り、いま1つは木ノ芽あるいは栃ノ木峠などに向かう戦略的要地だった』

『鯖波から5〜600m北上すると関ヶ端がある。東側を日野川が流れ、西には蓮光坊山が迫り、菅谷坂から下りてきた若狭道も合流して、

 これを受けて関を構えるには軍事的にも経済的にも格好の場所であった。俗にいう朝倉街道は、ここを起点に日野川を渡り、牧谷峠を越えていった。』

『朝倉家は燧山、杣山とこの関ヶ鼻を南西方面に対する軍事的拠点にした。地形が山と川で集約され、

 是非とも通らねばならぬ所でワナを仕掛け、網をはるにはあつらえ向きの所とみられた。』と記しています。

この付近の地図参照


 

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