8 天狗党、加賀藩と交渉、ついに降伏 12月10日朝、天狗党の一隊が今庄宿に入ったことを聞いた永原甚七郎率いる加賀藩兵約1,000人は、敦賀を発って葉原宿(敦賀市葉原)へ陣を進めました。宿場には午後4時頃着きました。 その頃、二ツ屋宿に派遣してあった斥候から、天狗党が新保宿へ進んできたとの知らせをうけ、葉原宿外に出て戦闘体制をとりました。 翌12月11日も引続き、葉原宿外で戦闘体制をとって、天狗党が進んでくるのを待ち受けました。こうして天狗党勢と加賀藩兵とは、この地で対峙することになりました。 この日、天狗党から加賀藩陣地へ封書が送られてきました。要旨は「我ら一隊は、大子村を出発して以来、 戦う意思はなく、新保宿においても決して敵意はない。だから京都へ上る道を開いて欲しい。」というものでした。 加賀藩では、幹部らが封書の内容について協議した結果、「わが藩は禁裏守護職、 一橋慶喜の命により出陣したもので、このまま通行させることはできない、一戦のほかなし。」と返書しました。 天狗党は、さらに戦を交える意思なき真情を訴え、重ねて書面を送ってきました。 こうした交渉の中で12月12日、天狗党は浪士3名を葉原宿に派遣し、加賀藩永原甚七郎宛の一書を添えて、 一橋慶喜に差し出すべき嘆願書と始末書を届け、これを慶喜に伝達して欲しいと頼みました。 これを受け取った加賀藩では、翌12月13日、永原甚七郎以下3名の連署及び添書を付けて、大目付滝川播磨守らに差し出す一方、 永原甚七郎らは、加賀藩士2名に嘆願書などを持たせて大津本陣に行かせましたが、滝川播磨守は、 これは趣意書であって降伏状ではないことを理由に受け取らず、本陣においても受理されませんでした。 加賀藩は武士道をもって天狗党を丁重に扱い、12月14日には加賀藩から米200俵、漬物10樽、酒2石、鯣2,000枚を送っております。 12月15日、幕府目付、織田市蔵が陣中慰労の名目で葉原宿に来て、加賀藩永原甚七郎などに引見し、天狗党への総攻撃を12月17日に定めるよう伝達して引き取りました。 12月16日、加賀藩は、藩士を天狗党本陣の新保宿へ遣わし、総攻撃が12月17日に決まったので、今後は戦闘行為に移ることを通告しました。 これを受けた天狗党は、新保宿着陣以来の加賀藩の恩義を感じ、敵対行為を取ることをやめ、降伏する旨を申し出ました。 加賀藩は、直ちに近かくに陣を構えて対陣中の福井、小田原藩へ急使を出し、12月17日の総攻撃を見合わせるよう伝えました。 12月17日、武田耕雲斎は、武田魁介を葉原宿に遣わして、嘆願書及び始末書と口上書を差し出しました。 永原甚七郎は、これを海津の本陣へ送りましたが、目付、由比図書は、口上書は前の嘆願書を変更しただけで、真の降伏状ではないとの理由で受け取りませんでした。 やむなく口上書は永原甚七郎預かりとなり、永原甚七郎は、その意を武田耕雲斎に伝え、12月17日降伏状を提出させました。こうして天狗党は加賀藩の軍門に降りました。 9 天狗党降伏後の加賀藩の処遇 (1) 浪士・武器など受渡し状況 12月18日 浪士40人余、馬7〜8匹引渡し 12月19日 武田魁介以下浪士260余人(槍持参)引渡し (葉原宿民家5〜6軒に収容) 12月20日 永原甚七郎、敦賀へ出張中の目付織田市蔵に面会 し、降伏状を手交し、伝達する。 12月21日 永原甚七郎、海津本陣に出向き、一橋慶喜に降伏状 を手渡し、寛大な扱いを申し出る。浪士達、加賀藩 預かりとなる。 12月22日 人員・馬匹・武器の引渡し 人員数 828人(5人病死) 実人員 823人 (注:女性1人がいた。市毛源七の母みえ56歳) 馬52匹、駄馬40匹、大砲12門、50目筒9挺、 大小刀8,111腰、槍275本、薙刀21振、弓11張、 火銃388挺、火薬53貫目、鉛弾丸40貫目、 早具2,000発、竹火縄45把、兜27頭、 陣羽織57枚、鞍51口、兵卒鎧100具、 烏帽子36個、陣太鼓5個、馬標14本、幕4双 (2) 天狗党、敦賀の寺院収容状況 12月23日〜25日 浪士を敦賀の寺院へ収容 本勝寺 武田耕雲斎など387人 本妙寺 武田魁介など346人 長遠寺 山形半六など 90人 12月24日 一橋慶喜 海津を出立し、京都へ帰る
(3) 敦賀町内の警備状況 敦賀町内の警備は小浜藩が担当し、加賀藩は祐光寺を本陣として天狗党浪士達の世話方にあたりました。 加賀藩の浪士に対する待遇は、食物は、町内の木綿屋鹿七に請負わせ、士人は一汁三菜、 卒は一汁二采のほか薬用と称して一日酒三斗を支給し、そのほか鼻紙、煙草、衣類を支給しました。
|