1一揆の背景
丹生郡・今立郡で発生した宝暦6年(1756)の本保騒動から13年後の明和5年(1768)、福井城下注1で大きな一揆が起きました。
明和期(1764〜1771)は全国的に百姓一揆が多発しましたが、福井城下で一揆が発生する直前に越前では次のような兆候がみられました。
○明和3年(1766)正月、鯖江藩領で郷盛注2に反対する落書騒ぎが起きました。
○明和4年(1767)8月、三国で尾張屋五郎兵衛家が打毀し注3に遭いました。
注1:福井城下
正徳3年(1713)の調査で164町、これらの諸町は木田組、神宮寺町組、石場町組、本町組、京町組、上呉服町組、一乗町組、下呉服町組、室町組、松本町組の11の町組に組織され、
それぞれに町組頭が置かれ、これに木田地方、石場畑方、町外地方、三橋地方、松本地方の5地方が付属した。
町屋の人口は、正徳2年(1712)調査で2万1393人、それに福井定住の武家人口約1万3000人を加えると城下全体の人口は約3万3、4千人であった。
注2:郷盛
年間の諸経費や人足を郷や村、町などでその構成員に割り当てること。持高に応じて割り当てたり、均等に戸数割にしたり、
半分は持高、後の半分は戸数割にするなど時代や地域によって方法は異なり、この割り方をめぐって大高持と小高持・無高百姓が争うこともしばしばあった。
注3:打毀し
一揆の一形態。一般に領主への合法的な訴願行動が実現されない場合、集団的行動に出る形態は多様で、
逃散、愁訴、越訴、強訴、打毀しと激しい実力行使にエスカレートした。打毀しは怒りを有力な豪商や大庄屋などにぶつけ、その家、蔵等を打毀した。
2一揆の原因
一揆の原因は、年貢の過重、災害、米価、御用金賦課、藩札不安など様々な問題が絡んでいました。
○年貢は宝暦11年(1761)以来の定免制注4継続による取立て、
○災害は明和3年(1766)に城下三橋町地方注5から出火し2676軒類焼の火災、
○米価は藩の明里蔵米注67000俵が三国へ川下げとなったこと、
御用達商人注7の美濃屋が大野辺から米5000俵を買い入れ他国販売したとの噂など騰貴不安、実際、米1俵銀24〜5匁だったのが、当時31〜2匁に上昇した。
○御用金注8は明和5年(1768)2月、藩主の帰国費用と称し1万5500両の上納を江戸から伝えられ、これが直接の引き金となった。
注4:定免制(じょうめんせい)
近世徴租法の一つ。過去何年間の収穫量を平均し、以後5年ないし10年の免(租率)を固定する方法。これにより年の豊凶に関係なく毎年一定の年貢領を徴収できた。
江戸初期には検見制が多かったが、年貢増徴のため中期以降、全国的に普及。県内の諸藩でも部分的に採用されている。
注5:三橋地方(みつはしじかた)
福井城下の北西方、底喰川流域にあった村名、当初は村方であったが、やがて人家が建て込み各地方町が成立する。現在の花月、乾徳町方面。
注6:明里米蔵(あかりこめぐら)
福井藩の米蔵。同藩の米蔵は明里・松岡・広瀬(越前市)にあったが、福井城下に近く足羽川に面した明里の蔵が最大であった。
3000坪の敷地に34棟の米蔵が並び六万俵の米を収納した。年貢米の搬入期間は10月〜12月で、翌年3月に払米として大阪などに運び出された。
注7:御用達商人
江戸時代、幕府、諸藩に出入りを許されて用品納入や金銀の調達などをした特権商人
注8:御用金
江戸時代、幕府、諸藩が財政の不足を補うため、臨時に御用商人などに課した賦課金
3一揆発生の経過
明和5年(1768)3月21日、福井城下は貧しい町人達が「このままでは餓死するので米を恵んでほしい」「何とぞお救いください」と嘆願する動きがみられました。
翌22日、町組頭注9新屋兵左衛門支配下の町人100人ほどが困窮を訴え、安養寺注10に集まった後、兵左衛門及び町組頭丸屋九左衛門方へ救米願にやってきました。
昼時には町組頭二文字屋惣左衛門と久々津又右衛門組下の町人200人ほどが大橋下注11へ集まり、そこから惣左衛門・又右衛門方へ押しかけ、同じように救米を求めました。
町組頭赤尾助右衛門組下の町人たちも同じ行動に出ました。時を合わせたように、城下のあちこちで町組頭へ救米を要求する騒ぎが起きたのです。
こうして3月22日、福井城下で"米よこせ"騒動が起きますが、まだ暴動(一揆)までは起きませんでした。
ところが3月23日頃から町人に加え、近隣の百姓も集まって不穏な様相を見せ始めます。
大橋の下に200人ほどが集まり、騒ぎ立てるため町奉行鈴木忠右衛門指揮により主だった者30人ほどが捕縛されました。
また、城下呉服町方面には700人ほどが集まり、その一部は城下一乗町注11-2の新屋三郎右衛門方酒店に押し寄せ、半強制的に「飯を食わせてくれ」と要求しました。
騒ぎは翌日も続いたので、町奉行は城下一町内から1人ずつを捕縛し、牢屋注13に入れました。この日、城下北方、中角方面でも百姓が400人ほどが集まりました。
25日には地方の百姓が続々と参加し騒動は大きくなっていきます。この日、朝から「古蓑・破笠」姿に4、5尺ほどの竹杖を持った百姓700人ほどが加わって、
口々に「ひたるいひたるい、賄くれ」と叫びながら、藩御用達で札所元締注12を勤める美濃屋や極印屋等へ食事を強要し、古鍬・古鋤などの農具を質にとってくれと迫まります。
まず一乗町の新屋三郎右衛門方に再び押し寄せ「米よこせ、飯食わせろ」と要求しました。
同家では反抗して怒りを招いては大変だと家中40人を総動員し家の裏庭に大釜を据え、握り飯に奈良漬を添え提供しました。
このため米を20俵ほど使い、橋南注12-1の豪商慶松からも20俵ほど届いたといいます。このことは百姓たちに好感を与えたようです。
こうして騒然となった城下町で、米の買い占めで巨利を得て百姓を苦しめる張本人といわれた呉服町注12-2の極印屋(庄左衛門)、塩町注12-3の美濃屋(喜左衛門)方では、
百姓たちが突然鬨の声を上げて家の中に乱入し、家財道具を叩き壊し、酒蔵に入って酒を撒き散らすなど打毀しを行いました。
町奉行は夜になっても残っていた18人を捕縛し牢屋に入れました。騒ぎは日を追ってエスカレートしていきました。
一揆の実力行使が本格化したのは3月26日からで、一揆勢2000人余りが城下に押し寄せました。
福井藩は城下の各入口に足軽を配置し、一揆勢の説得に努めますが、数の多さに及ばず、遂に一揆勢を刺激することを恐れ、手出しできませんでした。
勢いに乗った一揆勢は城下大工町注12-4に押し寄せ、前日、捕縛された入牢者の釈放を要求しました。
このように事態は鎮まるどころか悪化する一方で、城下の治安は全く保たれなくなりました。
福井藩は慎重な態度をとり最後まで武力行動にでず、一揆を鎮めるため百姓の要求を呑まざるを得ないと考え、
入牢者、町人約60人、百姓約10人を釈放し、御用金上納を免除するという大幅な譲歩に踏み切りました。
藩では、この切り札以外に事態を解決する方法がないと判断したのでしょう。一揆勢の完全な勝利となり、この日、百姓は一旦、退散しました。
しかし、3月27日に一揆勢3000人が城下に押し寄せ、鎮まると判断した藩の思惑は完全に外れました。
この日、城下に押し寄せた一揆勢の大半が吉田郡志比方面の百姓で竹杖を持ち、志比口注12-5から入ってきました。
夕方になると加賀口注12-6(福井城下の北方木戸口)からも一揆勢が侵入してきました。 それぞれが「飯食わせろ」と要求するので仕方なく飯をつくって支給しました。
藩では城の御門や周辺を固める一方、江戸在住の藩主や首脳に急を告げるため御徒目付の菅沼五郎左衛門が乗馬し早駆けで江戸へ出発しました。
3月28日、一揆勢はさらに増え、6,7千人となり、坂井郡方面からの百姓が多くなり、その行列は8`も続いたといいます。
一揆勢は城下大工町注12-4の大工頭藤間又三郎方に押し寄せ、川を堰き止め、その中に家財道具をぶち込みました。米を計量する升注14の責任者で、大工などを監督する立場の藩士でした。
百姓にとって米を計量する升の容積は最大の関心事であり、藤間はこのことで不正があり、百姓から恨まれていたようです。
次に極印屋と美濃屋を再び襲い、徹底的に破壊しました。夜になると家老酒井外記の屋敷の門前にまで町人や百姓たち100人ほどが押し寄せ、
中老嶋田清左衛門・目付太田三郎兵衛・侍格水野三右衛門を「打砕け」と罵ったといいます。
酒井外記の屋敷は城内(現在泉町2丁目付近)にありましたから、これは城外にあった下屋敷のことでしょう。
一揆勢も多数の動員を背景に、次第に凶悪化し、御用金免除くらいでは聞き入れず、数を増していきました。
3月29日は一揆勢は最高に達しました。越前各地から約2万人の百姓が押し寄せ、特権的商人注15宅等を打毀し、藩役人を激しく批判しました。
襲撃されたのは志比口注12-5の筏屋喜右衛門(煙草問屋)、妙国寺町注15-1の油屋長右衛門(米穀商)、八幡町注15-2の伏見屋吉兵衛(米穀商)、鍛冶町注15-3の紙屋新兵衛などです。
松岡でも四郎丸屋、野中屋などが打毀されました。これらの商家は米、煙草の問屋が多く、日頃から百姓に恨まれていました。
城下町の各商家は大戸を下ろして息を潜めていました。藩の明里米蔵注6まで襲撃されると噂が立ちました。
さらに作食米願や定免制反対、升の不正など、藩に対して20数項目の要求を突き付けます。こうした騒動は地方へも波及し、在方でも打毀しが起こりました。
ついに最後の手段として藩の最重職を勤める上級武士(高知席)注16が直接百姓の説得に当たりました。
高知席のうち本多修理、杉田主水、大谷助六、萩野孫右衛門、波々伯部靱負、明石主膳らが直接一揆勢を説得することになり、
松本方面、呉服町方面など方面別に手分けし、一揆勢と話し合った後、後述のように東西両別院に一揆勢の代表者たちを集め百姓の要求を聞きました。
城下の騒ぎが鎮まったのは4月1日のこと、4月5日の坂井郡吉崎における騒動を最後にようやく不穏な動きは鎮まりました。
福井城下以外では松岡・丹生郡入村・今立郡小黒村での打毀し、府中・金津での「狼藉」、今立郡五箇地方も騒がしかったようです。
注 9:町組頭
注1で説明のとおり福井城下の町方を11組に分け、各組に組頭を配して藩からの法令伝達、願書の取次、争論の調停などに関わらせた。
注10:安養寺
福井市足羽1丁目にある浄土宗西山禅林寺派の寺。文明5年朝倉孝景が一乗谷に建立。天正3年北庄に移り、江戸期は壇林小本山の寺格を有し、加賀、越前の当派寺院の触頭となった。
注11:大橋下
九十九橋、北庄橋、米橋、大橋と呼ばれ、福井城下の西南、足羽川に架かる橋。江戸時代、橋の北詰は城下の中心地で高札場があり、ここが国内各地への里程の起点とされた。
橋北詰の京町から呉服町にかけてが、当時の繁華街で、江戸期は防衛上の配慮から九十九橋が福井城下の唯一の橋であった。その他の橋は幕末になって初めて架けられた。
注11-2:一乗町
福井城下、はじめ一乗町組、のち長者町組の1町。上呉服町・京町の境から東西に延びる町で、北は長者町、南は魚町、東は片原と接した。
柴田勝家が北庄に城下町を構築した際、旧領主朝倉氏の居館地一乗谷にちなんで名付けたものという。明治7年の町名改称の際の戸数60.同年錦下町の一部となる。前記城下絵図のDの地域を指す。
注12:札所元締
福井藩札の勘定、仕事などの全体を締めくくっていた役人
注12-1:橋南
福井城下の町屋は足羽川に架かる大橋(九十九橋)を境に南北に分かれ、大橋北詰から北を橋北、大橋南詰から南を橋南と呼んでいた。
橋南の町屋は足羽川の左岸たもとから南へ細長く延びていた。橋北の町屋は城内の北堀と西側の外堀一帯に広がっていた。前記城下図参照のこと。
注12-2:呉服町
福井城下、上呉服町組の1町。北陸街道は足羽川に架かる大橋(九十九橋)を渡り、橋北詰から筋違橋町で東に折れるまで町屋は福井城西側外堀に平行して北上していた。
この街道沿いの町屋を大橋北詰から順に辿ると京町、上呉服町、中呉服町、下呉服町、筋違橋町と続き、中でも京町と上呉服町は城下第1の繁華な目抜き通りであった。
当町は慶長年間作成の御城下四ツ割図に「呉服町」と記され、天正年間の福井城下絵図からは上呉服町と記される。
町名の由来は呉服商人を集め居住させたことによるが、明治5年頃呉服商、古手屋を合わせて53軒を数えた。
注12-3:塩町
福井城下、京町組の1町。東は京町、西は山町、南は木町、北は夷町に接していた。慶長年間の御城下四ツ割図に町名が見え家数35を数える。
塩問屋や塩小売商が居住していた。明治7年町名変更で照手中町の一部となった。戸数25
注12-4:大工町
福井城下、下呉服町組の1町。城下北部に位置し大工職人が多く住んでいた。明治7年町名変更時の戸数95、同年東下町と改称された。
注12-5:志比口
福井城下へ入るには、通称福井七口といわれる関門があったが、その一つ、城下北部の志比道(勝山街道)から城下に入る口が志比口であった。
前記城下図G松本組の東方にある。この付近の松本地方にできた町が志比口町で城下町の1つになった。
注12-6:加賀口
福井城下へ入る北陸街道の北の入口を下口(加賀口御門)として木戸が設置され大木戸と称した。前記城下図G松本組の北方にあった。
注13:牢
江戸時代、福井藩の牢屋は城下北方、現在の福井市松本4丁目市体育館及び福井中消防署あたり、また御仕置場は明里村(福井市明里町)にあったという。
注14:升
年貢米など穀物などの分量をはかる容器。年貢を納める場合、1斗は京升で1斗1升4合、つまり4斗5升6合で1俵としていた。この升の容量に不正があったようだ。
注15:特権的商人
江戸時代、幕府、諸藩に出入りを許されて用品納入や金銀の調達などをした御用商人、御用達を特権的商人と呼んでいた。
注15-1:妙国寺町
福井城下、はじめ一乗町組のうち、のち長者町組の1町。西山上町から北へ延びて妙国寺へ達する町並みで、東は西山横町、西は西山光照寺の境内に接した。
慶長年間の御城下四ツ割図に町名が見え家数は34を数える。町名は町の北にあった日蓮宗法頂山妙国寺に由来する。明治7年乾上町の一部となる。
注15-2:八幡町
福井城下、はじめ京町組のち本町組の1町。足羽川右岸に沿う街で、北は山町、東は木町と接した。慶長年間の御城下四ツ割図に町名が見え家数33を数える。
町の西端に八幡神社が鎮座し、その門前町として形成された。明治7年町名改正時の戸数45、同年照手上町の一部となった。
注15-3:鍛冶町
福井城下、木田組の1町。木田組辻町の東に接し、東は春日町に連なる。町名の由来は昔、野鍛冶が居住していたからという。
天保年間頃の家数44のうち藩御用檜皮役6、檜皮職10など檜皮職人が多く住んでいた。明治7年氷川町の一部となる。合併時の戸数51。
注16:高知席(衆)
福井藩の家格は府中本多家を別格とし、家老・城代といった最重職につく上級武士が高知衆(席)と呼ばれ17家に限られていた。
4一揆の計画性
一揆は事前にある程度の準備が行われていたようです。3月25日の極印屋・美濃屋打毀しには、拍子木の合図で一斉に進退しており、
盗みや酒の飲み過ぎもありませんでした。打毀した後は15,6人が残って火の元を点検し引き上げています。
百姓たちは郡ごとに庄屋を中心に組織され、火の用心や窃盗・殺人の禁止、行動時の鉦打ちによる進退など五つの掟を事前に定めています。
5一揆の要求事項
騒動がピークに達した3月29日、藩の高知衆注16が乗り出し、一揆の代表者たちを東西本願寺掛所注17に集め、鎮まるよう説得しました。
この時、百姓側から用水、村方先納、役人尻なし頼母子、運上、蔵升、作食、定免、綿・麻直納など数多くの要求が出されました。
一揆の大きな原因の一つが御用金でしたが、これは26日に藩が中止を決めたので除くとして、多岐にわたる要求事項をまとめると概ね次のようになります。
注16:高知衆(高知席)
福井藩の家格は府中本多家を別格とし、家老・城代といった最重職につく上級武士が高知衆(席)と呼ばれ17家に限られていた。
注17:東西本願寺掛所
東本願寺派は福井御坊本瑞寺が、西本願寺派は福井御坊本行寺が両本願寺の掛所(別院)であった。
(1)生活と農業耕作の維持
ア 餓死米と作食米の下付
イ 農具・種代の下付
ウ 川北地方注18の用水確保
エ 連判諸借金の永年賦許可
注18:川北地方(かわきたじかた)
慶長18年(1613)に南金津に福井藩の金津奉行所が置かれ、九頭竜川以北の川北領の支配と三国湊の監視を行わせた。九頭竜川以北の福井藩領の村々を川北地方と呼んだ。
(2)年貢負担軽減とその納入法の改善
ア 見立免(検見)の実施
イ 綿・麻直納の許可
ウ 五分方の米納
エ 年貢関係諸値段の町相場での算用
オ 新規諸運上
カ 家中先納の中止
キ 町在囲米の中止
(3)町方の商業・流通への不満
ア 綿・麻直納の許可
イ 五分方の米納
ウ 年貢関係諸値段の町相場での算用
エ 町人共の内悪み深い者の指導処罰
オ 連判諸借金の永年賦許
カ 不正な升使用の中止
キ 諸借金永年賦
(4)役人の非違・不正、給人の横暴糾弾
ア 川北地方の用水確保
イ 無貪着な役人の指導処罰
ウ 私欲贔屓する役人の指導処罰
エ 家中先納の中止
オ 今年の奉公人裏書手形延期
(5)藩民政の停滞批判
ア 百姓願の円滑な処置
イ 三橋村百姓願の実現
これを見ますと村方に関するものが中心ですが、町方に関わるものも少なくありません。とくに(1)のアは町在の困窮者に共通する基本的な要求ですし、当初、これを掲げて一揆は始まったのです。
(1)(2)に含まれるイ以下の項目は、百姓の基本的な生活と農業経営、それに再生産可能な農民生活の成立ちを求めたものです。
(2)アは6年来続いている年貢増徴策としての定免制を検見制に戻すよう訴えています。
(3)アは寛延元年(1748)の強訴の際にも問題になった手形商問屋の豪商慶松五右衛門等に委ねていた小物成の綿・麻の納入を藩の蔵へ直接上納したいという要求です。
(3)イの「五分方米」は村高一石に五升の割合で徴収される年貢の一種「夫米」のことで、これを銀納から米納にするよう求めたもので、米価によって負担額が上下するのを嫌ったものです。
(2)オ・カ・キは新規に設けられた負担への不満です。
(3)は城下の商業と流通が藩役人と結んだ御用達商人等を中心とする有力町人によって左右され、彼らが暴利を貪り、庶民に難儀を与えていると指摘したものです。
打毀しに遭った家々を書き上げたのが下表ですが、城下の商人はいずれも藩と関係する特権的商人か、
庶民生活に直接影響する米屋、高利貸し等で不当な利益を上げているとみなされていました。(3)エはそれを端的に示すものです。
(3)オ、(4)オは年貢等のために町の高利貸しから金を借り、返済できずに田畑を手放す者が増加していた状況からの要求です。
(4)(5)は武士階級、藩権力への批判です。3月26日入牢者をを解放させた一揆勢は、家老以下民政に関わる役人に対しても容赦ない非難を浴びせています。
(5)アは宝暦11年(1761)に組頭が廃止となって以来、諸願を容易に藩へ提出できなくなったことを指しています。
以上、多種多様な要求が出されていますが、これが一揆の特色です。同時に元禄(1688〜1704)・享保期(1716〜1736)までの一揆と比較しますと、
共通部分が多い反面、商業・流通関係などが大きな位置を占めており、農村の商品経済と深い関連を持った一揆でした。
6関係者の処分と藩政の変更
この一揆に対する福井藩の対応は慎重で終始受け身でした。家老宅が打毀されないよう防備し、
一揆勢が城内へ入り込まないよう七つの城門へ先手頭以下を配置し、弓・鉄砲等の武器を持って固めましたが、積極的な武力鎮圧に出ませんでした。
一揆側も藩との正面対決を避け、武力衝突は最後まで起こしませんでした。また、この時、他の越前諸藩が積極的に対応した形跡もありません。
ひたすら一揆勢が暴発しないよう努めるだけでした。このため一般の町人・百姓から一人の処罰者も出ていません。
一方で藩政担当者に対する処分は厳しく行われました。藩主重富は4月16日に江戸において家老酒井外記を「急度慎」注19とした外、
寺社奉行・目付・郡奉行・大工頭を「急度遠慮」注20とするなど仮の処分を行い、帰国後7月1日に改めて関係役人の処分を発表しました。
民政に関わった役人のほとんどを罷免・交代させた厳しい内容でした。家老酒井外記は罷免され、
直接鎮圧の責任を負っていた目付太田三郎兵衛は、知行の内150石召上げの上「遠慮」とされました。
民衆の怨嗟の的となっていた彼らを処分することで、一揆の再発を防止しようとしたことが窺えます。打毀しの対象となった御用達商人に対しても7月13日に処分が行われました。
極印屋庄左衛門と美濃屋喜左衛門には最も重く、「急度慎」の上、家名変更と町裏屋への所替えを命じ、
新屋三郎右衛門へは5人扶持の内2人扶持取上げ、見谷屋助右衛門には3人扶持取上げ、御用達御免としました。
これら4人は共に宝暦11年(1761)に御用達・札所元締に任じられ、新規扶持米や加増を受けており、藩財政に関わりを持っていました。
そのため比較的庶民の批判が少なかった新屋は、そのまま御用達を勤めさせ、安永4年(1775)2月に美濃屋と極印屋も御用達に復活させています。
一揆後の藩財政・民政策は大きく変更を余儀なくされました。一揆側の具体的要求に対する主な回答は次の通りです。
升については5月29日「明和五子」と焼印した新しい升を製作、以後これを通用させることになりました。
農政面では明和6年4月より見取免とすることを確認しました。10月には宝暦11年(1761)までの見取免の扱い方を「去免」注21とし、
年貢率や下行米額をすべてこの時点に戻し、これを基準として今年の作柄にあわせ年貢を決定することにしました。
同年6月に「町在〆(しま)り」を目的に大庄屋制を設けました。宝暦11年(1761)に組頭制を廃止していたのを復活させ、大庄屋と改称して設置しました。
大庄屋の人数は18人とし、多くはかつての組頭から任命しました。明和7年(1770)6月、代官の人数を7人から14人に戻し、手代も元通りとしました。
つまりすべてを宝暦11年(1761)の農政改革以前の体制に戻したのです。
注19:急度慎
江戸時代、武士や僧侶に科した刑罰の一つ、家の内に籠居して外出することを許さないこと。
注20:急度遠慮
江戸時代、武士や僧侶に科した刑罰の一つ、軽い謹慎刑で自宅での籠居を命じたもの。夜間の密かな外出は黙認された。
注21:去免
正確な意味は分からない。前後の文章から推測すると、先年の免、つまり以前の税率のことか。
7一揆の波及
この一揆は越前各地に波及し、様々な騒ぎを起こしました。城下以外にも松岡、丹生郡入村、今立郡小黒町村で打毀し、府中、金津では「狼藉」がありました。
丹生郡では大森・山内・滝波の三ヵ村の百姓たちが、大森村の富農宅へ押しかけるという噂が立ちました。
(1)今立郡五箇地方の騒動
中でも注目されるのは、福井藩領今立郡五箇地方の動きです。五箇地方注21-2は古くから特産和紙の生産で賑わってきた所です。
この紙漉き業に従事する者の多くが5石未満の高持百姓や雑家層でしたが、年貢は7割から9割と高率であり、
元禄12年(1699)から始まった運上金注22と相まって、その頃から困窮する者が増加していました。
そのため業者は判元注23の大滝村注24三田村家や仲買商の岩本村注25内田家などから資金を前貸ししてもらう、いわゆる問屋制前貸の下に組み込まれていきました。
18世紀中頃には五箇の紙漉き業全体が衰退を余儀なくされていました。この五箇近くの粟田部村注26の者が福井へ作食願に出たのは3月26日でした。
翌日には定友村注27の者が、生業の紙が販売不振であると言い立て、同じく作食願に出ました。28日には不老注28・大滝・新在家注29・岩本の4ヵ村からも出ていきました。
このときは家1軒に1人、計400人ほどが参加したといいます。4月になると今度は粟田部・岩本村辺りに一揆が押し寄せるという噂が立ちました。
2日には赤坂村注30方面から寄せてくるとか、不老村辺りから岩本を潰すという噂が出るなど村々は一揆に沸き立ちました。
当時、岩本村の商人、野辺家・内田家は共に藩の札所元締を勤めていましたから、藩札不安が一揆の原因だと、自分達も襲われるかもしれないと不安がりました。
幸い何事もなく過ぎましたので、内田家は御礼に岩本・大滝へ酒2斗、新在家・定友・不老へ酒1斗を袴ばきで配りました。
4月半ば、新たな動きが起こりました。21日、紙運上金のことで、大滝村を除く4ヵ村の者が
1軒に1人ずつ大滝社大鳥居の下に寄り合い、翌日4ヵ村として藩へ運上廃止の願書を提出したのです。
これに対し、藩から5月14日4ヵ村に「運上の件は考慮する、詳しくは藩主が江戸から帰国の上」との申渡しがありました。
これに反発する者がおり、17日に若殿誕生祝いにこと寄せ、村中で福井へ押しかけようという配符が廻ったり、
24日には粟田部村の2軒を27日に壊すという内容の廻文がありしましたが、実際は実行されませんでした。
7月11日に漸く藩から正式の回答がありました。判元制を廃止し「身運上」といって、それぞれが紙漉きで稼いだ分から6分の運上金を出すことになりました。
外に4村へ救米を6年間、計600俵が与えられることになりました。大滝村も願い出れば同じ扱いが受けられることが確認されました。
こうして約70年間続いた運上金を撤回させたことは、百姓たちには大きな喜びであり、7月24日に村中で祝いをしたといいます。
もっとも、この制度は5年後の安永3年(1774)廃止され、再び元の判元制に戻されてしまいます。
注21-2:五箇地方
武生盆地の東部にある越前和紙の産地。今立郡内の不老・大滝・岩本・新在家・定友の5集落からなり、名の由来となる。紙漉きの起源は紙漉きを教えた川上御前の伝承があり、今も岡太神社に祀られている。
注22:運上金
江戸時代、工、商、運送などの営業に割り当てた税金
注23:判元
福井藩では漉紙に対し統制を強めるため、元禄12年(1699)岩本村に紙会所を設置し判元制度をつくった。
判元に京都商人三木権大夫ら3人を委任し、漉立、販売のすべてを統制させ運上を確実に掌握した。後に大滝村の三田村家が御紙屋の筆頭として判元になった。
注24:大滝村
大滝川上流域の山間に位置、すでに戦国期から盛んに紙漉きが行われていた。福井藩領、村高245石余、寛保2年(1742)家数94、本百姓のうち43軒は紙漉き小屋を有し、農業の傍ら和紙を生産した。
注25:岩本村
鞍谷川中流域の平地に位置、福井藩領、村高265石余。天保12年(1841)家数65、人数295、当村には内田家、野辺家、
小林家の別格の家があり、紙の判元制の下で漆実仕入と蝋燭製造販売などの特権を有し、商業の発達に大きな影響を与えた。
注26:粟田部村
行司ヶ岳南東麓、鞍谷川中流域に位置。戦国期の住人に商人や職人らしい屋号を持った者が目立つため粟田部は、この地域の商工業の中心地だったと推定される。
福井藩領、村高1633石余。月尾谷、水間谷、服部谷、河和田谷などの物資が集散する在郷町として発達。元文5年(1740)の家数333だが安政6年(1859)には家数537と増大し、商工業の発達と賑わいが窺われる。
注27:定友村
大徳山北麓に位置、福井藩領、村高268石余、天保9年(1838)の家数52、人数222.古くから和紙産業が盛んで、現在も紙加工業者や紙商業者が多い。
注28:不老村
鞍谷川中流域の平地に位置。福井藩領、村高278石余。寛政元年(1789)の家数39、人数246。天保9年(1838)には和紙の漉屋が23軒あり、和紙産業が主産業であった。
注29:新在家村
鞍谷川中流域の平地に位置。福井藩領、村高218石余。寛政元年(1789)の家数46、人数140。加藤河内家を筆頭に当村では和紙産業が発達し、
天保9年(1838)福井藩に納入した小物成の紙舟役は大滝・岩本両村に次ぎ250匁であった。
注30:赤坂村
鞍谷川中流右岸の平地に位置。はじめ福井藩、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)大阪城代土岐頼殷領、正徳2年(1712)幕府領、
享保5年(1720)鯖江藩領。村高1029石余、享保6年(1721)の家数60、人数256。江戸期から千石田とよばれている農村地帯であった。
(2)南条郡今泉浦などの一揆
明和5年(1768)12月14日、福井藩領南条郡今泉浦注31などで打毀しが発生しました。蓑虫たちが暮れ方、同浦の北五右衛門家へ押し寄せて打毀し、
次いで郡上藩・小浜藩相給の南条郡上中津原村注32吉助・与右衛門宅をも打毀しました。
理由は、旗本金森左京の白崎陣屋注33や郡上藩千福陣屋注34から、上中津原村や西尾藩領下中津原村注35等の米800俵を移出するよう、
舟持ちの米屋浜野三郎右衛門と北五右衛門に依頼があり、時節柄、白崎陣屋は福井藩へ相談し、同藩はこれを受けて今泉浦の問屋・村役人へ積出しを命じたことによります。
騒動後の12月20日、福井藩は河野浦注36から20人ばかり、24日には赤萩村注37の11人を福井へ連行し、厳しく吟味を行いました。
その結果、赤萩村が出頭村と断定され、廻文に関わった4人が頭取として死罪注38、他に6人が追放注39、さらに同村庄屋・長百姓3人が、村追放注40となりました。
河野浦でも1人が蟄居注412人が十三里外へ追放注42となりました。福井藩は3月に発生した一揆とはうって変わって厳罰で臨んだのです。
注31:今泉浦
矢良巣岳の西麓に位置、室町期から見える浦名。南条郡、福井藩領、高70石余、享保2年(1717)家数45、北国船など12隻、当浦は西街道の馬借仕事のほかに船をつくり、東北や北海道方面に船を出していた。
注32:上中津原村
矢良巣岳の東北麓に形成される盆地に位置、南条郡、はじめ福井藩府中本多氏知行所、貞享3年(1686)幕府領、元禄11年(1698)258石余が小浜藩領となり、
宝暦8年(1758)幕府領291石余が美濃郡上藩領となる。以降両藩の相給。村高は549石余、元禄8年(1695)家数51、人数316。
注33:白崎陣屋
宝暦8年(1758)金森可英(よしひで)が越前に7000石(左京家)を与えられ、南条郡白崎村に陣屋を置いた。
宝暦8年のいわゆる郡上騒動で本家が改易になった後、可英が名跡を継いで旗本になり、越前に所領を与えられた。陣屋には家臣の屋敷も付属していた。
注34:千福陣屋
宝暦8年(1758)郡上騒動で金森頼錦は改易され、代って青山幸道が丹波宮津から4万8000石で入封、青山家は郡上郡と越前大野郡の金森家旧領を引き継いだほかに
越前南条郡の千福、妙法寺、中津原(小浜藩と相給)、上野、金粕の5ヵ村3631石余と丹生郡の石生谷、朝日(幸若領と相給)、上野、野、寺、蝉口、下大倉、吉田、田、二丁掛、冬島、和田、
余田(幕府領と割郷)の13ヵ村5604石余を領した。郡上藩は大野郡の所領を支配するため勝山町の南方に位置する若猪野村に陣屋を置き、常時代官2人を配置して年貢収納をはじめ民政一般を担当させた。
宝暦8年(1758)以降郡上藩領となった丹生・南条郡の18ヵ村を管轄する陣屋が南条郡千福村に置かれ代官2人が直接支配に当たった。
注35:下中津原村
矢良巣岳の北麓に形成される盆地に位置、南条郡、はじめ福井藩、貞享3年(1686)幕府領、明和元年(1764)三河西尾藩領、村高716石余、貞享4年(1687)家数30、人数153
注36:河野浦
矢良巣岳南麓に位置、室町期から見える浦名。南条郡、福井藩領、浦高46石余。宝暦11年(1761)の家数64、人数324。
文化4年(1804)500石積と600石積の弁才船2隻を含む総船数11。当浦は北前船の水主の給源地として知られ、敦賀、小浜の船に毎年乗り組んでいた。
注37:赤萩村
河野川中流域、矢良巣岳東麓の山間部に位置。戦国期に見える村名、南条郡、福井藩領、村高21石余。安政3年(1856)家数37、人数101。
寛保年間(1741〜1744)布包紙、雑紙を漉き、蓑も作っていた。その他炭焼き、石灰焼き、クズ根掘りなども行っていた。
注38:死罪
庶民を斬首する御仕置。死罪は情状により引廻しの付加刑を科し、かつ、田畑、家屋敷、家財の没収(闕所)を伴った。死体は様斬り(ためしぎり)に供された。
注39:追放
江戸時代、正刑として重追放、中追放、軽追放、江戸十里四方追放、江戸払、所払、門前払などあった。
追放刑は御構場所(立入禁止地域)が指定され、付加刑として没収(闕所)を伴うのが普通であった。江戸十里四方追放は日本橋を中心とし、
半径五里以内の地域内における居住を禁止し、在方の者(地方民)は、その居村をも居住を禁じた。
注40:村追放
村内での居住を禁止し、村外へ追放した刑
注41:蟄居
江戸時代、武士に科した刑罰の一つ。自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させる刑で、外出を一切禁止した。この種の監禁刑の中で一番重い刑であった。終身のものを永蟄居という。
注42:十三里外へ追放
追放刑の一種。居住地から十三里外へ追放した刑。
(3)勝山藩領での検見取騒動
明和8年(1771)8月8日、勝山藩領で検見取騒動が起こりました。年貢の増徴を図る藩は元禄10年(1647)以来の定免制を検見制に改めようと、
江戸から地方役人2人を招き、彼らの指導でこれを実現しようとしました。
村々の庄屋たちは城下尊光寺注43で協議し、夜に入ると一般百姓も集まって九頭竜川原で篝火を焚き騒ぎました。
藩役人が出動して解散を促しましたが、検見撤回の藩書付が出ない限り動かないと強硬でした。
かくして藩は検見制実施の撤回を伝え、幕府役人2人は早々に江戸へ引き揚げました。
百姓側は、当時藩勝手役として京都から来ていた商人高橋丈右衛門の罷免と、彼に家を提供していた打波屋伊八の追放も要求しましたが、これらは認められませんでした。
この件では頭取吟味もありませんでした。庄屋を中心とする領内惣百姓の団結を誇示する行動だけで藩の意図を打ち砕いたわけです。
注43:尊光寺
浄土真宗本願寺派、山号は村岡山、開基の昭慧(しょうえ)は顕如の甥と伝えられ、本願寺第11世顕如が「尊号光明寺」の寺号を与えたが、後にこれを略して「尊光寺」と呼ぶようになった。
慶長2年(1597)に勝山の現在地に移り、本願寺准如より勝山地方の惣坊と称することを重ねて許された。勝山市本町2丁目に現在する。
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主な参考文献
福井県史通史編4近世二 福井県
福井県の歴史 隼田嘉彦他3名著
福井県の歴史 印牧邦雄著
越前若狭の歴史物語 小林 巌著
福井県大百科事典 福井新聞社
日本地名大辞典18福井県 角川書店 |
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